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それぞれの4年間
平素より弊部の活動をご理解、ご支援頂きありがとうございます。これまでの関西大学同好会ラクロス部を作り上げてきたOB・OGの皆様、日々ご支援くださった保護者の皆様、コーチの皆様には感謝してもしきれません。
そして、今シーズンを支えてくれた部員のみんな、ありがとう。
最後のブログということで、何を書けばよいのかわかりませんが、心の赴くままに書こうと思います。
リーグ戦一試合目、近畿大学に負けたとき、本当に涙が止まらなかった。
今シーズンが始まる前、下馬評でも明らかに僕たちは弱かった。
だが、トップリーグの接戦で近畿大学に勝ったことで、僕らも戦える、そう感じた。
そこから練習試合を戦う中で、まったく勝てなかった。トップリーグで勝ったあの瞬間と何が違うのか、何が悪かったのか、どうしたらよいのかわからなかった。
一定程度戦えている、そういう認識はあった。
だからそれに甘えた。
勝てなかったことから目を逸らし続けた。
その結果が二部降格だと思っている。そして、ファイナル3を達成する上で絶対に勝たないといけないのが近畿大学だった。
しかも、その負け方はこれまでにないほどの完敗だった。
ああ、俺らの目標はここで終わった。
本当に心の底からそう感じたし、2部降格する瞬間まで見えた。そしてその予感通り近畿大学は4位になり、僕らは2部に降格した。すべてを予感し、負けた結果を受け入れられず、本当に涙した。
そこからの6試合、もちろん全力で取り組んだ。見えた未来に怯えながら、その未来を変えるために臨んだ。でも近畿大学以上に、他大学との差は大きく感じた。
絶望した。
なんど止めても、止めても、止めても、決められ、決められ、決められ、決められ、負ける。
思い通りにいかない怒りに、恐怖に怯えてリスクを取れない自分に、仲間に、苛立ちが隠せなかった。
どうやったらいいのか、まったくわからなかった。
将来が見えなかった。何も変えられなかった。勝ちに一縷の希望すらもてなくなり、負けることに慣れていった。それを誤魔化すように声を出し、練習し、それでも勝てない。やはり勝てない。完全に負のループに陥っていった。
ただただ涙した。みんなはどうだったのかは知らないが、本当に苦しかった。
最終試合、その前の大阪公立大との練習試合、少しだけ希望が持てた。
勝ち、一部残留が見えた。
私たちにもその可能性は十二分にあった。
3-4まで来たとき、次の1点を取ったほうが勝つという確信があった。
それは大阪大学の選手も同じように言っていた。その1点が取れなかった。これが僕らの弱さだろう。上手い下手ではない、弱さなのだろう。そうして僕のラクロスは終わった。
後輩のみんなは、こうならないよう、日々練習に励んでください。
これからは自分の4年間を振り返りたいと思う。
鹿児島出身の私は、関西大学という誰も知り合いのいない環境に飛び込んだ。
コロナにより授業は全くなく、半年間友達もいないままバイトだけをしていた。
秋学期になり、対面で授業があり、その時言語で一緒だったいぶきに連れられて、ラクロスの体験会に行った。
最初は別に面白いとも何とも思っていなかったが、教えてもらったのがすべて消えるのももったいないと思い、そのまま続けていた。同期は9人。特段仲の良いわけではなかったが、それなりに一緒に壁に行ったりもしていた。
ゴーリーは自分がやりたくて希望した。
サッカーのキーパーが好きだったので、似たようなものだろうと思い始めた。
思ったよりも痛かったが、それなりに楽しかった。ウィンターで初めて試合に触れた。それまではラクロスの試合なんて1回も見たことなかったし、練習試合もなし、ルールも曖昧、戦術も教えられず、ただいわれるがまま出場し、こんな面白くないスポーツなのかと思った。
ウィンターでも1試合も勝てずに終わった。本当に面白くなかった。そしてそのまま上級生の練習に合流。僕は接触もないのでなにも思わなかったが、同期は痛い、と口にすることが多くなった。先輩の悪口を言うことが多くなった。気づけば一緒に壁に行くこともなくなっていた。
気づけば一人、また一人と減っていった。
今思えば、試合もない、勝つ喜びを知らない、そんな状況下で上級生との練習にぶち込まれ、たたかれる、押される、罵倒される、なんのためにやるのかわからなくなる。いつこの状況が終わるのか、変わるのか、まったくわからないまま進む。そりゃ辞めたくなる。そう思う。宮田は頭がおかしいというのがよくわかる。
大学2年に上がるとき、父の一周忌があり、鹿児島に帰省した。
父は大学1年の夏にこの世を去った。みんなから愛される、尊敬できる、大好きな父だった。いつ見ても大きなその背中についていった。いろいろなことを経験させてくれた、厳しく𠮟ってくれた、愛してくれた。本当に大好きだった。亡くなる直前に一緒に過ごした数週間、大きかった父はやせ細り、車いすで生活し、やがて立てなくなった。そしてこの世を去った。火葬のボタンは自分が押した。
そこから逃げるように生活していた私にとって、この1周忌のタイミングでの帰省は、父の死と向き合う時間となった。
ラクロスのことなんかこれっぽっちも考えず、ただただ時間を浪費した。元気なように見せていたが、本当は辛かった。今でも結局受け入れられていない。
その後、21シーズン終わり際にラクロス部に戻った私はほとんど初心者の状態からなんとか練習を重ねた。
2枚目のゴーリーとして過ごした22シーズンは本当にきつかった。まったく成長している実感がわかなかったし、だれの目にも映っていないのだろうなとよく思っていた。
シーズン開始からリーグ戦の直前まですべての練習試合で負け続けていたチームで一生出ることができなかった。
出す、今日は出す、何点差で出す、そう言われ続けまったく出られなかった、本当に意味が分からなかった。
結局出られた試合は一試合だけ。1枚目のゴーリーが病欠だったときだけだった。なぜ出られないのか、どうやったら出られるのか全く理解できないし、目標も持てない、出る期待もない。モチベーションなど皆無だった。
結局出た試合は引き分けだったものの、それまでで最小失点くらいだった気がする。それでもそのあと試合で使われることはなかった。
何をやっても出られない。努力しても誰も見てくれない。そう確信した瞬間だった。
1枚目になった23シーズン、最初から最後まで1枚で活動した。練習から試合まで全て1枚で戦った。それまで一試合しか経験したことない私にはこれくらいやっても足りなかったようだ。
まずは試合に出られることがうれしかった。楽しかった。とくにトップリーグ近大戦はとても楽しめた。やっとラクロスをプレーできた気がした。自分で合宿を手引きしたり、スポンサーをとったり、体育会に直接行って会話をしたり、本当にいろいろな経験ができた。結果が振るわなかったくせに何を言っているのだといわれるかもしれないが、個人的には本当に充実した1年だった。
こんな自由な環境に感謝している。
4年間振り返って、100点満点か、と聞かれたら全くそんなことはない。結果は振るわなかったし、常に孤独だった、同期は少ない。ただ、最後の一年間は楽しく、充実した唯一無二の経験であったことは間違いない。間違いなくラクロスは大切な人生の要素となった。最後の一年、やりたいことを好きにやらせてくれた周囲のみんなに、環境に感謝したい。
最後に、来年関西制覇を目指せる環境を用意できなかったこと、本当に申し訳ない。今後はOBとして一部に昇格、全国の舞台に関西大学が立てるよう、できる限り尽力していきたい。
みんなの4年間を自分にとって価値のあるものにしてほしい。
お世話になりました。
23シーズン副将/主務 熊野大誠